自分への挑戦
久々すぎる投稿。あれよあれよという間の一年が終わろうとしている。これで教員生活満1年と3か月になった。50歳の新たな出発を前に、これからのことを書いておこう。
中学生の転部について
自分の中学生時代を振り返ると、いったん入部したクラブが 「失敗だった。」と思っても、親の反対を押し切って入ったのだから転部などできるはずもない・・・と思っていやいや続けていた。もっとも、兄と姉の学費を稼ぐことと、家のローンを支払うために、なりふり構わず働きっぱなしで、家計の資金繰りに明け暮れていた両親。三人目の私の悩みなど聞いてくれるはずもなく、あわよくば自分たちの虚栄心を満たしてくれればありがたい ぐらいにしか思われていない存在だった。
長い夏休みは充実。その後は災害続きで・・・
気が付けばもう9月17日で、二学期が始まってから3週間が過ぎようとしている。正職員にはない長い長い夏休みは充実の休暇であった。7月22日23日と長男のいる長野県へ車をひた走らせた。8月5日には神戸へ持病の受診に、9日には京都市内に置いてあったアップライトピアノを業者に搬入してもらった。8月12日から20日は石垣島の自宅にてこれまた濃すぎる重要な任務を果たし、大雨に降られながらも最終日㏠前にはようやく晴れて娘を友達と泳がせてあげられた。石垣島の自宅に、今の職場の職員室の隣の席の先生が息子さんと尋ねてきてくれたことが大変うれしく、二学期からの職員室での居心地が格段にラクになった。全く持って処遇は変わらないのだが、ほぼ肩の力を抜くことができるようになった。臨時の教員など、肩の力を抜いてできることだけ無理せずやっていればいいのだということがわかっていた。生徒にとってもその方がよいのだ。「どいつもこいつもどうせセンセイ」話の分かるやつなんて一人もいない!と思っている生徒がいるとしたら、それはちがうんだということをわかってもらいたいものだ。私はなんちゃってセンセイなのだ。それでよいと思っている。中学校で教員の端くれをやっていることより、一人の中学生女子の親として保護者であることの方が重要だからだ。ただ、保護者として、娘が問題の渦中にあるとき、客観的のものごとを見ることは難しくなるので そういう時はきっかけを作ってはやるとしても、助けはしない。でなければ問題解決能力が備わらない。中学生時代というのは、悩みに悩んで、自己解決能力を身に着けるべき時期だ。今親がしゃしゃり出て何とかことを動かそうとしたら、絶対によくはない。こうなったら、本人の力を信じるしかないのだ。私は今まで通り、親としての責務と、医療面でのフォローを担うだけだ。娘の力を信じて。
ここまで大雨になるとは・・・。
えらい長いこと御無沙汰してしまった。
人間て心で生きているんだね。
こないだの続きの続きです。昨日は 自分の仕事がいつまでたっても具体化しないことに少々滅入っていたが、夜の手話サークルに参加してとっても癒された。自ら、自分の殻を破って(鎧をはずして)すんなりと「癒し系人間」で入っていけば お互いン位心を開いてなじんでいけるんだなぁと 思ったからだ。私はそういう役目だ。たぶん。もともと成績の良い生徒がテストでより良い点を取るために加配された教員ではない。むしろ、勉強が難しくて、進度が早すぎて、ついていくのが困難な生徒のために配されている。そんなかんじで、自分のおかれた立場や、仕事のやり方みたいなものが徐々に見えてきだしたので ずいぶん楽になった。 ほんと、手話サークルに参加してよかった。 まったく、窮地に陥った時は、まったく関係のなさそうな別の視点からアプローチできるときがある。そして、人につかれたとき人に傷ついたときは、人との心のふれあいでないと 癒すことは難しい。もちろん猫たちは私の一部のようなかけがえのない存在ではあるけれども、猫に疲れたりすることはまずもってない。人間て心で生きているんだね。
本当に大切なものは何か。これが見えてくる島。
島を離れる日まであと九日。となった。今日は本当に久しぶりに6時45分まで寝ていた。しみじみとじわじわと、島を離れることへの淋しさが押し寄せてくる。ここは本当に不便でモノも少なく通販も郵便も遅く、物価は高い。しかし人は親切で温かくシャイ。そうでない人もいるのだろうが、ウエルカムな感じで受け入れてくれる。ここは楽園だ。それに今頃気づいた。
あらすじ[編集]
操縦士の「ぼく」は、サハラ砂漠に不時着する。1週間分の水しかなく、周囲1000マイル以内に誰もいないであろう孤独で不安な夜を過ごした「ぼく」は、翌日、1人の少年と出会う。話すうちに、少年がある小惑星からやってきた王子[2]であることを「ぼく」は知る。
王子の星は家ほどの大きさで、そこには3つの火山と、根を張って星を割いてしまう程巨大になるバオバブの芽と、よその星からやってきた種から咲いた1輪のバラの花があった。王子はバラの花を美しいと思い、大切に世話していた。しかし、ある日バラの花とけんかしたことをきっかけに、他の星の世界を見に行くために旅に出る。王子は他の小惑星をいくつか訪れるが、そこで出会うのは
- 自分の体面を保つことに汲々とする王
- 賞賛の言葉しか耳に入らない自惚れ屋
- 酒を飲む事を恥じ、それを忘れるために酒を飲む呑み助
- 夜空の星の所有権を主張し、その数の勘定に日々を費やす実業家(絵本、新訳の一部ではビジネスマン)
- 1分に1回自転するため、1分ごとにガス灯の点火や消火を行なっている点燈夫
- 自分の机を離れたこともないという地理学者
といった、どこかへんてこな大人ばかりだった(数字は「○番目の星」として登場する順番)。6番目の星にいた地理学者の勧めを受けて、王子は7番目の星、地球へと向かう。
地球の砂漠に降り立った王子は、まずヘビに出会う。その後、王子は高い火山を見、数千本のバラの群生に出会う。自分の星を愛し、自分の小惑星の火山とバラの花を愛おしく、特別に思っていた王子は、自分の星のものよりずっと高い山、自分の星のバラよりずっとたくさんのバラを見つけて、自分の愛した小惑星、火山、バラはありふれた、つまらないものであったのかと思い、泣く。
泣いている王子のところに、キツネが現れる。悲しさを紛らわせるために遊んで欲しいと頼む王子に、仲良くならないと遊べない、とキツネは言う。キツネによれば、「仲良くなる」とは、あるものを他の同じようなものとは違う特別なものだと考えること、あるものに対して他よりもずっと時間をかけ、何かを見るにつけそれをよすがに思い出すようになることだという。これを聞いた王子は、いくらほかにたくさんのバラがあろうとも、自分が美しいと思い精一杯の世話をしたバラはやはり愛おしく、自分にとって一番のバラなのだと悟る。
キツネと別れるときになり、王子は自分がキツネと「仲良く」なっていたことに気付く。別れの悲しさを前に「相手を悲しくさせるのなら、仲良くなんかならなければ良かった」と思う王子に、「黄色く色づく麦畑を見て、王子の美しい金髪を思い出せるなら、仲良くなった事は決して無駄なこと、悪い事ではなかった」とキツネは答える。別れ際、王子は「大切なものは、目に見えない」という「秘密」をキツネから教えられる。
日々飛行機を修理しようと悪戦苦闘するかたわら、こんな話を王子から聞いていた「ぼく」は、ついに蓄えの水が底をつき、途方に暮れる。「井戸を探しに行こう」という王子に、砂漠の中で見つかるわけはないと思いながらついて行った「ぼく」は、本当に井戸を発見する。王子と一緒に水を飲みながら、「ぼく」は王子から、明日で王子が地球に来て1年になると教えられる。王子はその場に残り、「ぼく」は飛行機の修理をするために戻っていった。
翌日、奇跡的に飛行機が直り、「ぼく」は王子に知らせに行く。すると、王子はヘビと話をしていた。王子が砂漠にやってきたのは、1年前と星の配置が全く同じ時に、ヘビに噛まれることで、身体を置いて自分の小惑星に帰るためだったのだ。別れを悲しむ「ぼく」に、「自分は自分の星に帰るのだから、きみは夜空を見上げて、その星のどれかの上で、自分が笑っていると想像すれば良い。そうすれば、君は星全部が笑っているように見えるはずだから」と語る。王子はヘビに噛まれて砂漠に倒れた。
翌日、王子の身体は跡形もなくなっていた。王子が自分の星に帰れたのだと「ぼく」は考え、夜空を見上げる。王子が笑っているのだろうと考えるときには、夜空は笑顔で満ちているように見えるのだが、万一王子が悲しんでいたらと考えると、そのうちのひとつに王子がいるであろういくつもの星々がみな、涙でいっぱいになっているかのように、「ぼく」には見えるのであった。
王子さまが 特急列車に乗り込む人々のことを語るシーンについて
... みんなは、特急列車に乗りこむけど、いまではもう、なにをさがしてるのか、 わからなくなってる。だからみんなは、そわそわしたり、どうどうめぐりなんかしてるんだよ……
このシーンを思い出すと、この島にはこのような人間はあまり住んでいないか、住めない。と思う。もっと不便な離島なんかだとなおさらそうだ。私はまた時間の切り売りのような世界に戻り、あくせく暮らして過ごさなければならない。ここは天国だな。猫にとっても人間にとっても。