身にバスケット最後の試合。まきら児童公園のネコさん。

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ミニバスケット小学校最後の試合(女子)が昨日終わった。小学校6年生の春から転校したので、約300日たらずしかまだミニバスケットのクラブの所属はしていないのだけれど、6年生最後の試合ということで、試合に出させてもらい2シュートをきめて、母としてはもう充分にうるうるして 満足していました。長年やっている子は優勝できなかった悔しさで、まだ終わってないうちから涙を流していましたが。

試合のあった まきら小学校の真ん前は児童公園になっていて、そのよこにロイヤルマリンパレスというホテルがあります。ほんのちょっとだけですが都会的な雰囲気があります。海岸には美しい海の景色が広がり、竹富島 西表島 などが見えます。ちょっとほっとひと息座っていますと、かわいい桜耳の地域ネコがいらっしゃいました。本当にかわいいんです。白いボディに頭と、しっぽだけがキジトラ模様なんです。お母さんとお父さんおじいちゃんとおばあちゃんのガラ(模様)を想像すると楽しいのがノラ猫さんたちです。思わず帽子ちゃんという名前を付けました。その可愛さのせいか 帽子ちゃんは人慣れしていて、ちょっぴり怖がりですが 警戒心を解いてすりすりして、しっぽを私に巻き付けて座ったり、おなかをなでなでしてほしいよ~というように 寝転んだりしていました。元飼い猫なのかな?とおもうぐらいです。しかしまだ若いようなので、きっと去年の初秋くらいに生まれた地域ネコなんでしょう。南国でも猫の繁殖期は本土と同じく、春と秋なのかな?と ほんのり思いました。
 
さて、先日の中3の授業で『誰かの代わりに』を深読みしました。深読みすればするほど難しく、考えなければならないことを常に回避しながら生きているんだなぁということに、気づきました。生きるってことは、必ずっ死ぬってことだし、人間は死ぬから できるだけそれを逃れ遠ざけるように暮らしているのだと思います。重度の障害を持って生まれた人、重い病気で余命いくばくもない人、解除を必要としてしか生きられない人、・・・。同じ一つの命だけれど、生きる苦しみを健常者の想像もしない苦しみや不便を味わっている人にとって、またその人を支える家族たち周囲の人にとっての『生きる』は どんなものなのだろう と考えます。 重度障がい者施設を襲撃した犯人のような人間もまた、一人の人間として生きているわけです。『誰かの代わりに』鷲田清一 氏のこの作品をどうか読んでみてください。